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浄土真宗はなぜ「西」と「東」があるのか【7/1 更新】

浄土真宗の方にどちらですか?と聞くと「東」とか「西」と返ってきます。他宗派の方からすると「同じ浄土真宗なのになにが違うの?」となると思います。

ちなみに「東」とは真宗大谷派。「西」は本願寺派のことを指しています。

なぜ同じ浄土真宗なのに、宗派が別なのでしょうか。

ここではそのような本願寺の秘密について解説します。今回はなぜ同じ浄土真宗の寺院でも、それぞれお東は真宗大谷派、お西は本願寺派という別の宗派を名乗っているのかご説明したいと思います。

浄土真宗とは

そもそも東本願寺、西本願寺の所属する浄土真宗とはどのような仏教なのでしょうか。

日本には、仏教の宗派は、主要な分け方で言っても、浄土真宗を始め真言宗などの密教や、曹洞宗などの禅宗などを含めて13宗派あります。

開祖は親鸞その中でも日本で最も信者の多い宗派が浄土真宗です。

平安時代の後期に親鸞(しんらん)が開祖となって広がっていきます。なお、浄土真宗の教義で有名なものが「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という言葉にです。

訳すと「生きている間にのよい行いをした善人でさえ死んだら極楽に行ける。それくらいだから悪人であればなおさら極楽に行ける」ということです。どういうこと?と思われた方も多いかと思います。

もっとわかりやすくお伝えすると、「自分は良い行いをしたから極楽に行けるはずだと思って仏様にすがる気持ちがない善人」よりも「自分の悪行を自覚して、それでも救ってくれるように仏様にすがるそのような悪人」の方が極楽に行けるだから一心に仏様にすがりなさいという教えなのです。

浄土真宗が「東」「西」に分かれた理由は

実は本願寺は今から500年前の戦国時代には1つでした。

しかし織田信長が今の大阪城の場所にあった石山本願寺を攻めた石山戦争(1570年~80年の11年間、各地の一向宗と血みどろの戦いを繰り広げた。この一向宗の本山が大坂の石山にあったので石山本願寺戦争と呼ばれた)をきっかけに2つに分かれました。

当時の石山本願寺は浄土真宗の一大拠点であり難攻不落の砦でした。織田信長は、石山本願寺を10年以上攻め続けましたが、結局石山本願寺を降伏させることはできませんでした。

天下統一の為にこの土地が重要だと知っていた信長は、当時の正親町天皇(おかちまちてんのう)を間に入れて和睦を求めました。

その時に本願寺内で信長と和睦するか、徹底的に戦うかで議論が分かれ、その結果本願寺内が2派に分かれてしまったのです。

次は「東」とは真宗大谷派。「西」は本願寺派で違うもののご説明をいたします。

ご本尊が違う

まずご本尊の形が違います。大谷派(東)には船後光がないのに対し本願寺派(西)の阿弥陀如来立像は、後光の下に船後光という部分があります。また、ご本尊を掛け軸にした場合、後光の本数が違います。大谷派の阿弥陀如来は6本。本願寺派の阿弥陀如来は8本となっています。

仏壇や仏具が違う

仏具の違いもあります。柱が黒塗りになっているのが大谷派で仏壇の柱が金箔で加工してあるのが本願寺派です。

花立、香炉、蝋燭立などの仏具は、本願寺派は黒っぽい色合いの物を使用しますが、大谷派では金色の物を使用します。

亀の背中に乗った鶴が口に蓮軸をくわえている鶴亀燭台であれば大谷派と。銅に漆塗りの宣徳製(せんとくせい)の燭台であれば本願寺派となります。

お線香と数珠も違う

お焼香の本数や回数、数珠の持ち方も、違いがあるようです。

大谷派と本願寺派では、お焼香の本数はどちらも1本で同じですが、回数は大谷派が2回、本願寺派が1回です。

また、数珠の持ち方については、男性は同じですが、女性は違います。

大谷派は数珠を二重に巻き、房を上にして合掌した両手に掛け、左手の側に房を垂らします。一方の本願寺派は、数珠を二重に巻き、合掌した両手に輪をかけ、房を小指の下に垂らします。

以上、東本願寺と西本願寺の違いについてご紹介しましたが、いかがでしょうか。普段身近にあるようでなかなか知らないですよね。

浄土真宗の方はご参考にして頂ければ幸いです。


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