お客様とお墓の話をしていると「宗派」はよくお話をする話題となります。その中で多いので「私は浄土真宗なんだけど本願寺派(西)と真宗大谷派(東)どっちかわからない」というやりとりをすることがあります。
もともとは本願寺派(西)と真宗大谷派(東)も同じ本願寺というお寺だったのですが、なぜ2つの派がある解説していきます。
【浄土真宗が「東」「西」に分かれた理由は】
実は本願寺は今から500年前の戦国時代には1つでした。
しかし織田信長が今の大阪城の場所にあった石山本願寺を攻めた石山戦争(1570年~80年の11年間、各地の一向宗と血みどろの戦いを繰り広げた。この一向宗の本山が大坂の石山にあったので石山本願寺戦争と呼ばれた)をきっかけに2つに分かれました。
当時の石山本願寺は浄土真宗の一大拠点であり難攻不落の砦でした。織田信長は、石山本願寺を10年以上攻め続けましたが、結局石山本願寺を降伏させることはできませんでした。
天下統一の為にこの土地が重要だと知っていた信長は、当時の正親町天皇(おかちまちてんのう)を間に入れて和睦を求めました。
その時に本願寺内で信長と和睦するか、徹底的に戦うかで議論が分かれ、その結果本願寺内が2派に分かれてしまったのです。
いかがでしょうか。2つに分かれたのは織田信長だったとは意外と思われたのではないでしょうか。そんな経緯もありましたが、現在は対立しておらず交流もあるそうです。
皆様もいざというときに自分の宗派は何だっけ?とならないように事前にお調べいただくことをオススメいたします。
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